Home>>Novels>>アウスム・アリュゼル>>第一章 第二節

第一章 世のはじまり

第二節 イルーサヴィアとデューナレウ
さあ見よ。アリュゼルの女神たちが顕現する。

 虚空の遙か高み、宙の一点が比類なき輝きを放つ。
 ——と、瞬刻にして、この白銀の光はアリューザ・ガルドに(あらわ)れた。イルーサヴィアとデューナレウ、二柱のアリュゼルの女神たちは光に包まれて顕現したのだ。輝きの中で彼女たちは目を開き、瞳に意志を宿らせた。

 二者は、自分たちが何者なのか理解していた。忌まわしい宿業からは離別した。過去生における記憶は次第次第に薄れつつある。
 澄んだ白い肌。髪の色は薄紫で、瞳の色もまた同じ。身を包むは、純白の神衣。か弱く、未だ幼さの残る少女を(かたど)った彼女たちの、しかし気高く神々しいさま。
 二人が足を踏み出して地面に降り立つと、人の丈ほどの大きさだった光は凝縮し、音もなく空の彼方へと飛び去っていった。
(後述するが、この光は四方へと散らばり、アリューザ・ガルドにおける東西南北の護り手となるのだ)
 “白銀”という(いろど)りは誕生を司るものとなり、“薄紫”は神聖・高貴を司るものとなった。

◆◆◆◆

 二柱の女神たちが具現化した場所は、やはりアガントゥの山腹、草原地帯。蒸すような草の匂いを嗅いだ二人は言いようのない懐かしさを感じ、安心するのだった。
 周囲は濃い霧に包まれており、視界はまったく遮られている。足元はぬかるんでいて、つい先刻まで篠突く雨が降っていたようである。
 二人は手を取り合い、身を隠すことのできる岩陰を探し当てると、晴れるのを待った。

 ここで疑念を生じさせる者もいよう。
 アリューザ・ガルドを創造したアリュゼルの女神が、なぜ神の奇蹟を行使しないのか、と。
 全知全能にも近しい女神たちの権能をもってすれば、雨を避けるのも、晴れを()ぶのも容易い。生まれたばかりのアリュゼルの女神がそれを行わなかったのは、事象を変容させることによってもたらされる結果がどのようなものか、まったく確信できなかったからだ。生前の彼らが為した大破壊の記憶が刻まれているがゆえに。

 ——このことは今日(こんにち)における魔法使いにとっても深慮しなければならない事項である。
 変化を生じさせた、その行為には必ず結果・代償が伴う。
 因果を(ないがし)ろにする者に、魔法の真髄(しんずい)は門を開かないのだ。

 さて、二人の女神がいくら待てど濃霧は晴れるばかりか、天候は悪化の一途を辿っていった。草原地帯は凄まじく発達した雷雲のまっただ中に入り、暴風雪や雷が絶えず襲い来る、酷い嵐の様相となった。
 人の時間にして一週間ばかり過ぎた頃、ようやく猛烈な嵐が収まった。
 いずれ空は晴れ渡り、美しかったあの満天の星々を、煌々(こうこう)とした月の輝きを見ることができるだろう。女神たちは期待したがそれは(たが)われた。
 草原地帯は雲に包まれたままなのだ。
 しびれを切らした二人はアガントゥを降りることを決意した。

 足元がおぼつかない道中、姉のイルーサヴィアがデューナレウを導いていく。困難な道のりではあったが、どうにか二人は雲の厚い層を抜けた。見上げると、黒い雲が上空すべてを覆いつくしている。ゆえに月も、星々の輝きも地上に届くことはない。アガントゥは暗澹(あんたん)たる闇に閉ざされているのだ。
 このような事態ははじめてであった。

 (いぶか)しがりながらも女神たちは下山を続け、やがてアガントゥが終わる場所——海に行き着いた。岸辺には遮蔽(しゃへい)するものはなく、ところどころ大きな岩が見えるのみ。ごつごつとした岩畳の上を転ばぬように歩き、ようやく真っ黒な水際に辿り着いた。
 寄せては返す波。だが水面に映るものは何もない。深い闇の中、静寂さだけが際立つ。視線を戻し、遙か前方を見据える。向こう岸には、スマキオの環状山脈——アガントゥをぐるりと囲んでいる——が黒々とそびえている。ここは地中海のほとりなのだ。

◆◆◆◆

 二人の脳裏に情景が蘇る。それは生前——“幽想の界(サダノス)”に向かう前、兄弟の神々が最期に見た景色。

 ——虚空から見下ろすアリューザ・ガルドには、茫洋(ぼうよう)とした大海原のみがあった——

 ヴァルドデューンらが死んでから、いかほどの時間が流れたのかは定かでない。が、この地中海を渡り、環状山脈を越えればきっと広大な世界が続いているのだ。

「あの山々を越えましょう」
 イルーサヴィアは妹に言った。
「きっとそこは海しかない世界。新天地を創りましょう」
「イルー、でもね。急ぎたいことがひとつあるの。この黒い雲を消し去って、空に光を取り戻したいわ。真っ暗闇は、本当に鬱屈(うっくつ)しそう」
 デューナレウは辟易(へきえき)とした様子で提言した。
「そうね、私もそう思う。けれどデューン。雲を消すと言っても漠然としすぎていて、私たちにはそのすべが分からない」
「大雑把に言ってしまえば、雲って水が集まったものでしょう。雨を降らせてしまえばいいんじゃないかしら?」
「それは反射的に言うべきことではないわ」
 イルーサヴィアは妹を(いさ)めた。
「私たちは世界を——(ことわり)を全く掴んでいない。ようやく、今いるこのアガントゥ周辺の様子が少しばかり分かっただけ。無知も無知よ。こんな状態で大変動を起こしたら、どのような結果が世界にもたらされるのか、分かったものではないでしょう。絶対に忘れないで。私たちは世界を破壊しにやってきたのではないのよ」
「……さあ、海を越えるわよ。ここはひとつ、私たちの力を使いましょう。内に宿る力だけを使うのであれば、問題はないもの」
 イルーサヴィアは努めて明るく言った。
 デューナレウも影を振り払った。
「イルー。海辺でゆっくり過ごすのもいいと思うわ。私たち、時間だけはたっぷりあるもの」
 それを聞いてイルーサヴィアは肩をすくめた。それでいて彼女とてまんざらでもない、といった様子だ。
「そうね。急がずにやっていきましょう。世界をよく見渡して、見極めて——創っていきましょう。命ある輝く世界を」

 彼女たちの瞳の色が輝く金色へと変色する。女神はここではじめて神としての力を行使した。“女神の海渡り”である。海上を飛び渡って地中海を越えたのだ。途中で女神達は三十回、海面に足を付けたとされている。この一渡り分の距離が、のちに一海里と定められたという。

 こうして“海渡り”を終えた二人は岸辺でしばし休んだ後、進み始める。いよいよ急峻なスマキオの山々を登り始めた。(みち)など無い。岩壁を登攀(とはん)していくほかないのだ。
「……この山の向こう、空は晴れているのかしら?」
 荒々しい岩肌をよじりながら、デューナレウは不安そうに呟くのだった。

 果たして、デューナレウの不安は的中することとなる。
 連なるスマキオの峰のうち、アガントゥに近い最初の峰であるウスウォズの頂に至った彼女たちは長いことそこに留まると、山脈の構造を把握した。それから最も高いジスア・バゥの頂を目指し、権能を行使して軽々と飛び立っていった。
 彼女たちはそこで外の世界の有様をまざまざと知るのだった。

◆◆◆◆

 外の世界——そのどこを見ても地上は黒闇(こくあん)に支配されている。空は——低く垂れ込めた黒雲が、やはり見渡すかぎり広がっている。黒い(ふた)で塞がれているような息苦しさと禍々(まがまが)しさを感じる。
 海などどこにも存在しない。生命力を感じない、乾ききった岩盤のみが黒々と地平線の彼方にまで続いていた。

「なんてこと——!」
 二人は絶句するほかなかった。自分たちが“幽想の界(サダノス)”に留まっている間、世界は一体どうしてしまったというのだろう。海はどこへ消えたのか。そして異様な空模様は一体——
「あれを見て!」
 上空の様が変化したのを察知し、イルーサヴィアは警戒した。雲の中から漏斗(ろうと)状の雲が突き出してきたからだ。それは明確な意志を持っているかのように、女神たちのほうへ向けて伸びてくる。
「竜巻ね。……イルー、どうする? あれくらいなら、ぶっ潰しちゃいましょうか?」
 デューナレウが言った。
 二人は顔を見合わせたあと、示し合わせたかのように身構える。そのとき——
「お待ちを。私は竜巻ではありません。それは“風”の領分ですもの。私は“水の界(フィデュレール)”に属する者。名を“渦を巻く”ユジェと言います」
 雲の中、(かお)なき者が声を発した。


第一節 ⤆ 扉頁 ⤇ 第三節
⇪(Top)
Home>>Novels>>アウスム・アリュゼル>>第一章 第二節